文責:古田英毅
Text by Hideki Furuta
直前までは過去最高級のパフォーマンス
芳田が突然、良さを失った。
この日の芳田はこの試合まで、もっと言えば、この準決勝ノラ・ジャコヴァ(コソボ)戦のGS延長戦突入時点まで素晴らしい出来を見せていた。ひょっとするとキャリアナンバーワンのパフォーマンスだったのではないか。2回戦はルー・トンジュアン(中国)から1分16秒鮮やかな右一本背負投「一本」。ルーは今年のアジア・オセアニア選手権を制した強者、1回戦では2019年欧州選手権の覇者ダリア・メジェツカイア(ロシア)得意の「まわり内股」に「技有」を奪われながらも肩車「技有」、さらに小外掛を呼び込んでおいての内股巻込「技有」と連取して逆転勝ちを収めている。この難しい相手を芳田はまったく相手にせず、試合が始まると畳の上を滑るような素早い動きでまったく持ちどころを与えない。最後は奥襟を襲った相手の左釣り手を内側から弾きながら攻防一致で体をぶつけ、同時に小さくたたんだ左手で襟を掴むなり打点の高い右一本背負投一発。速く小さく、そして無駄の一切ないエントリーから上体をガクンと折る大きな展開、そして外れかけた相手を制動して背中から落とす決めの良さ。完璧だった。続く準々決勝はティムナ・ネルソン=レヴィー(イスラエル)が腰を引いて釣り手を持たせないと見るや足元を叩いて起こし、瞬間動きの止まった相手の袖を握り直して右袖釣込腰「技有」。これも相手が一瞬置き去り、まったく反応出来ない完璧なエントリーだった。あとは密着したい相手に取り合わず、チャンスを1つも与えぬままクロージング完了。
このジャコヴァ戦の本戦4分間も、惚れ惚れするような進退だった。しばし描写をお許し願いたい。開始1分を過ぎると畳上はまさに芳田の独擅場。右組みパワーファイターのジャコヴァが奥襟を叩くと、まず釣り手を突いておいて左内股、すぐさま立ち戻るとこの動作に混ぜ込んで釣り手の肘を相手の腕に載せて殺してしまい、左小外刈で攻める。奥襟を外されて苦しくなったジャコヴァが今度は逆に腰を突いて距離を取ろうとすると、左小外刈と腰切り動作で支えを外し、持ち返そうとするとすぐさま肘を振ってブロック。持ちどころのなくなったジャコヴァが背中を横から掴むと今度は肘を入れて左背負投の構え、慌てたジャコヴァは仕方なく遠間から右内股を放つが当然ながら体勢不十分。芳田に振り返されると大きく崩れて両膝を着く。このまま芳田が立って圧して「指導1」。諦めないジャコヴァ手順を変えて今度は引き手からまず袖を持つが、芳田持ち返していったん腰を引き、釣り手で腋を突いて距離を取る。この動作で相手の引き手が剥がれると釣り手の肘を上げて一気に距離をなくし、左内股一発。ジャコヴァ両膝を着いて倒れ、あわやポイント。釣り手、引き手いずれのエントリーも結局相手の有利に変換されるジャコヴァ仕方なくいったん離れて様子見に出るが、芳田すぐさま釣り手から持ちに行って思考する時間を与えない。ジャコヴァ切って両袖で応じるが、芳田両袖状態をうまく使った二段小外刈で場外まで追い込み、相手が踏みとどまったところに左袖釣込腰。これもあわやポイントという一撃、ジャコヴァは両膝を着いて崩れ伏せる。この時点で残り時間は1分12秒。
もう少しお付き合いいただきたい。ジャコヴァ今度は釣り手を背中から横抱きも、芳田はすぐさま肘を内側に入れ、大きく振って外すと左内股。すぐ立ち戻って攻防継続。ジャコヴァは首を抱いての左内股2回も望みのない技、1人崩れ伏せて「待て」。続いて釣り手をいったん跳ねのけて背中を深く叩く。これは形的に望みありと見えたが、芳田すぐさま飛び込みの左内股一撃。この試合一番の威力ある技に、ジャコヴァ吹っ飛んで両膝を着く。
このまま寝技で芳田が攻め、後帯を捕まれたジャコヴァが慌てて立って逃げたところで本戦4分が終了。つまりは芳田が攻めっぱなし。試合を見ながら幾度「うまい!」と呟いたことか。ジャコヴァはやりたいことをすべて封じられた上に、己の仕掛けをすべて、ことごとく芳田の攻めに変換されてしまっている。入口を変えても変えても外され、どころか一段上の形で芳田の技が襲ってくる。残り21秒、正中線を超えるところまで背中深くを掴んだにも関わらず芳田の左内股に吹っ飛ばされて両膝をついたジャコヴァは、「待て」を貰ってもしばし顔を上げずそのまま動きを止めていた。屈辱に顔が歪んでいるのではないかとすら思った。ここまで完璧に差を見せつけられては、もう出来ることがないはずだ。今回「評」を書くにあたり、メモを見返して本戦4分の芳田の優位が端的にわかる場面を抽出しようと試みたのだが、開始1分を過ぎてからここまで切りどころが一切ない。長くなったのはそれゆえだ。すべての時間帯、すべてのシークエンスを芳田が圧倒。負ける要素が見当たらない。敢えてメモから何かを見つけようとすれば、本戦終了の「0:00」の横に書き込まれた「指導1しかない?」の殴り書き。ここまで攻めに攻めているのに、具体的なスコアとしての結実が反則ポイント1つ、という燃費の悪さが気になったくらい。
「わからない」崩れた理由を、強いて考えてみる
それが、GS延長戦、おかしくなった。突如進退のリズムを失い、最後は腰を引いて組み負けた状態から右小外掛「技有」を失ってしまったのは皆さんが目撃した通り。
理由は、筆者にもわからない。外から見えることから、手掛かりを探していくしかない。まず延長戦の進行を描写してみると。
ジャコヴァは背筋を伸ばして様子見。芳田が釣り手から持って右一本背負投のフェイントを見せると、ジャコヴァは引き手で襟、釣り手で袖を持つ左組みの形を受け入れて進退。芳田は遠い間合いから左内股を見せるが投げ切れず、股中で捌かれて伏せGS35秒「待て」。立った表情に少々戸惑いの色あり。
ジャコヴァはまたも様子見、手先のみを交わして進退。ここから引き手で襟を掴み、釣り手で首裏を掴む「両襟奥」を経由して、引き手で袖を掴むことに成功。首裏を抑えられた芳田は頭が下がり、掛け潰れていったん展開を切る。試合時間はGS1分18秒。
再びお互い手先を交わすのみの組み手争い。芳田前に踏み込んで組みに行くが、ジャコヴァは背中を持って送り出すような出足払。続いて釣り手でまず袖を掴み、腰を切るフェイントで芳田の動きを止めるとこれを奥襟に持ち替え、引き手で前襟を持って「両襟奥」を完成。芳田一杯に手を突き、腰を引いて耐えるがリーチ差で切れず、手先が空を押す形になる。ジャコヴァが右小外掛に飛び込むと耐えきれず落下、GS2分2秒「技有」。
ということになる。
ジャコヴァはこのGS延長戦、僅かに組み手の手立てを変えている。この変更が、芳田の焦りによって生まれた行動律の穴に、すっぽり噛み合ってしまったという見立てを提示したいと思う。
芳田はなぜか焦り、そして明らかに投げ急いでいた。理由としてはまずやはり、あれだけ圧倒的に攻め、すべての手立てを封じ、「100-0」と言っていいほど展開を取った本戦4分間で得たポイントが「指導」たった1つという事実に対する精神的消耗があったのではないかと考える。外野の我々が「そういえば、『指導1』しかなかった」と驚いてしまうほどの圧倒的な試合内容、そこに投入したリソースは相応に大きかったはずだ。ここまで攻めても試合が終わらない、どころかこのパワーファイター相手にスコアとしては実質タイ、早く勝ってしまいたい、という焦りは当然あっただろう。本戦残り1分12秒の左袖釣込腰にジャコヴァが大きく崩れ伏せた場面、現実的にはポイントの望み薄かったこの技に、畳に這いながら主審の判定を見やる芳田の挙動と表情に一抹の違和感を覚えたことを、メモを見返していて思い出した。
この表情、GS延長戦35秒に放った、ほぼ望みのない作りからの左内股に繋がる伏線であったと思う。トータルファイターで、何分掛かろうが相手の弱いところに刃を入れることでタイトルを手にして来た芳田がなぜこんなに投げ急いだのか。もちろん前述、「掛けた労力に対するリターンの意外過ぎる少なさ」はあっただろう。パワーファイターのジャコヴァに形上組み勝たれ、「指導」を失って状況を悪くすることへの不安もあったと思う。あとは、少々突飛かもしれないのだが、筆者は、芳田の調子が良すぎたゆえではないかという可能性を考えている。メモを見返すと、常の芳田の戦評用のメモに比して、「投げを仕掛けた」記述が多い。もちろんこの試合では投技を「投げること」だけではなく「展開を取ること」に使っているせいもあるのだが、それにしても頻度が高い。ここまで左右に大技を連発する芳田の戦評メモは実は珍しい。これに初戦と準々決勝の鮮やか過ぎる投げ、切れすぎる動きを考え合わせると、芳田はあまりの仕上りの良さと投げの手ごたえ、そして大舞台ゆえの入れ込みで、知らず「投げて勝つ」ことに意識を持っていかれてしまっていたのではないかという見立てを持つことはできる。トータルファイターであるはずの芳田が(選手を技でラベル付けをせねば気の済まないメディアが彼女を「内股」で括りたがるように)、いつの間にか投げによる決着を無意識の前提としてしまったのではないだろうか。前述のGS延長戦、芳田には珍しく状況にかなわぬ技を掛ける「無茶投げ」を挑んで掛け潰れた場面はその端的な表れであったように思う。
この「投げたい」意識に、ジャコヴァの挙動が噛み合ってしまったという構図を考えている。ジャコヴァはこのGS延長戦、僅かに組み手の行動律を変えている。具体的には引き手で襟、釣り手で袖という左組みの形を経由して「両襟奥」に持ち込むことなのだが、それに増して重要なのは「行かなかった」こと。能動的な組みつきを減らし、背筋を伸ばして遠間から、芳田のアクションに合わせて組み手を進めて、組み勝つとまずその形を保つことを意識していた。
この「行かない」。実は結構重要である。2018年ワールドマスターズ広州準決勝、芳田はジャコヴァから内股「技有」を奪っている。この時はジャコヴァが横抱きに背中を抱き、奥足に向かって右小外掛を仕掛けて来たところを投げ切ったもの。レポートでも書かせて頂いたが、芳田の内股は典型的な女子柔道の技法で、パワーで無理やり投げるのではなく、柔らかさを使って投げ切る技。相手も柔らかい女子同士では間合いが遠いとどうしても投げ切れないのだが、相手の技を呼び込むことで間合いを近づけ、力を上手く伝えていた。相似のケースは、芳田に限らず女子柔道にはかなり多い。つまり芳田タイプの内股はある程度相手が「来てくれる」ことで力を発揮するものなのだが、ジャコヴァが行動律を変えて自ら近づいてこなくなってしまった。
内股に限らず。芳田はジャコヴァにここまで5勝0敗、そして直近3戦はいずれも(それ以前になると2015年まで遡るので除外する)、相手が「来てくれた」ことが勝利の契機となっている。2017年2月のグランドスラム・パリでは形上組み勝ったジャコヴァが前技を狙い、腰を切って踏み込んできたところを小外刈で叩き落として「技有」。そして前述ワールドマスターズ広州の内股「技有」。さらに今年1月のワールドマスターズ・ドーハでも、形上組み勝ったジャコヴァが小外刈に出たところを芳田が燕返の形で返し、崩れて尻餅をついたところをそのまま抑え込んで勝利を収めている。
そのジャコヴァが、来なくなった。組み勝つだけで、来てくれない。投げが決まる条件が満たされなくなってしまった。しかしいつの間にか投げて勝たねばいけない前提に意識を侵食されていた芳田は、相手がいまやまさにその投げが決まらない状況にあるに関わらず、もっとも得意とする、しかももっともこの状況には嵌りにくい左内股を遮二無二打ち込み、これが掛からないためにさらに精神的に追い込まれてしまったのではないのだろうか。
なぜジャコヴァは「行かない」挙に出たのか。これまでの試合のジャコヴァは組み合うことを怖がり、そして組み勝つといましか勝機はないとばかりに攻めに出、ことごとく芳田に嵌められていた。どうして今回は「(消極的なプロセスで)組み勝って、行かない」作戦に出ることが出来たのか。まずひとつ、これまでの試合を研究していた上で採った、懐に呑んでいた戦術である可能性は高いと思う。遮二無二欲しいところを持ちに行くのではなく、いったん不利(左組みの形)を受け入れて「両襟奥」に辿り着くという論理的な解があったことにはこれが匂う。ただ、であれば本戦であそこまでいいようにやられたことの説明が難しい。もう1つは、あまりに本戦で圧倒的にやられてしまったので、開き直ったという可能性。さらに、単にこれまで種々様々アプローチを変えて来たジャコヴァがついに「いったん受け入れて左で組み、ここから直す」という解を得、芳田の振る舞いからこれに手ごたえを感じたという可能性。
このあたりは、最後は本人に聞いてみないとわからない。ただ、ジャコヴァの挙動が芳田の心理状態と行動律の一番嫌な部分に嵌ってしまったということは間違いないと思う。ここまでハッキリ、試合の潮目が変わる試合は珍しい。
最後に付け足しとして。「ここまでやっても試合が終わらない」、その相手がターゲット選手ではないジャコヴァであったことの戸惑いも当然大きかったと思う。これがシジクやクリムカイトなら如何に相手の出来が良かろうと、いかに試合が長くなろうと芳田は淡々戦い続けて刃を入れる隙を見つけるという本来の戦いが貫けたのではないか。この場は五輪。どこかでこの大会ならではの「確変選手」が現れるであろうことは芳田の頭には当然あったと思う。ただそれが、ここまで5勝0敗のジャコヴァであったということに、理性はともかく、感覚がついていかなかったのではないか。絶好調の自分がここまで完璧な試合をしているのに、まだ投げが決まらない。体がこれを受け入れられなかったという側面もまた、あったはずだ。
何が起こったのかは、いずれ芳田本人の口から語られる日が来るだろう。いまのところは、外から観察したこれらの見立てを提示して、時を待ちたいと思う。失意の中、それでも難敵エテリ・リパルテリアニ(ジョージア)を2度投げて銅メダルを獲得した芳田は見事。5年間にわたるその苦闘と健闘に、敬意を表したい。
リオー東京期の過酷さ示した「最終勝者・ジャコヴァ」
芳田に勝ったジャコヴァ(コソボ)とサハ=レオニー・シジク(フランス)の決勝は、シジクのヘッドダイブ(いわゆる『頭突っ込み』)によるダイレクト反則負けという意外な決着。IJFは比較的この反則を見逃すことが多かったのだが、これはまったくルール通りの判定。シジクの首は屈曲しており、接地は頭の後ろ側。危ない。相手のコントロールの結果出来た形とはいえ、あそこまで強引に投げに出た結果とあっては言い訳のしようもない。文句なしの一発反則負け案件である。
ルールをきちんと適用したということは勿論だが、IJFはたとえ興冷めの結末と言われようとも、この注目の大一番で「柔道は危険行為に極めて厳しい、安全な競技である」ことをきちんと示す方を選択したと言える。おそらく視聴した日本の柔道関係者のほとんどが家族に、あるいは友人に「これは当然反則負け。危険行為」と説明したであろう。これで、いいのである。
少し付け加えるとすれば、この裁定には伏線があった。これまで消極的だったIJFが2020年から急にこの反則に厳しくなったという大きな流れはもちろんのこと、この日隣の畳で行われていた男子73kg級の競技で、大野将平が2度「頭(あくまで頭頂、額だが)を畳に着いて内股を決める」挙に出ていたこと。この大野の内股、戦前から多くの人が反則負けを危惧していた技である。筆者もメディア向けの講習会では「万が一大野敗れるとすれば」という一項を設け、その筆頭に「頭突っ込みによる反則負け」を挙げていた。IJFがこれを気にかけていないはずはなく、しかも大野がこの日2度目のこの技を決めた準々決勝では、投げられたルスタン・オルジョフ(アゼルバイジャン)が「ヘッドダイブではないか」と即座にアピールしている。午前中のセッション終盤にあったこの場面、休憩時間に話題に挙がらなかったはずはない。シジクは、最悪のタイミングでこの反則を犯したと言える。
シジクもまた、それまでの試合内容で圧倒しながら投げ急いでしまった。このあたりは、シジクがまだワールドツアーで優勝経験がない、最後まで辿り着いた経験がなかったことが影響したと見る。これはシジク戴冠のチャンスを潰して来たキム・ジンア(北朝鮮、2019年GSアブダビ決勝)、ジェシカ・クリムカイト(カナダ、2020年GSデュッセルドルフ決勝)、芳田(2021年ワールドマスターズ決勝)らの撒いた種がきちんと生きたという形だと思うのだが、それにしてもこの優勝候補たちが誰も残れず、その前に立ちはだかったのがジャコヴァになってしまうとは。さすがに意外であった。
57kg級はレベルの高い階級である。この5年間、特に前半戦の女子は多くの階級で中堅以下が停滞し、大会によってはかなりレベルの低いトーナメントが組まれることがあったのだが、この57kg級だけは山組みの段階から常に面白く、プレビューの書きがいがあった。強豪の人数が極めて多く、しかも魅力的な役者が揃っている。
しかし、ゆえにと言うべきか、結果から言えばこれほど最終勝者が読めなかった階級は珍しい。リオ五輪金メダリストのラファエラ・シウバ(ブラジル)がドーピング問題で欠け、本来もっとも有利とされる五輪前年の世界選手権王者である出口クリスタ(カナダ)が1年延期による選抜制度の混乱を経て代表権を失い、誰もが最大の変数として恐れていた強者キム・ジンアもドーピング問題で(※最終的には北朝鮮自体が国として不参加)消えた。大きく見れば、ここまで苛烈を極めた57kg級世界の最終戦が予定調和的に終わるはずもない。V候補芳田の敗退、クリムカイトとシジクの潰し合い、そしてシジクの意外過ぎるダイレクト反則負けという決着。艶消しの結末ではあったが、ある意味、この5年の57kg級世界の過酷さ、理不尽さを存分に表した結末であった。
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