【eJudo’s EYE】ラストサムライが残したもの、『柔道』を取り戻し『JUDO』を作った10年間/「大野将平のこと」(下)

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文責:古田英毅
Text by Hideki Furuta

2021年東京五輪、2連覇達成直後の大野将平

(上)から続く)

見出しに掲げてはしまったのだが、大野が「サムライ」であることを称える記事は既に世に溢れ返っている。そういう見立ての書き物はサムライ大野という文脈にもっと「乗れる」人たちに任せ、この項では柔道ウォッチャーとして大野が柔道史・柔道競技史に残したものが何かを語りたいと思う。

いまの日本柔道競技の「常識」を作ったのは大野将平だ

「二本持ち、投げて『一本』を狙う」世界は、当たり前ではなかった

常識というのは、当たり前過ぎて意識されにくいものである。いつ作られたものなのか、誰がその価値観をリードしたのか、どのように広まったものなのか。思考・行動の土台となる規範とはそもそも、当事者たちにはわかりにくいものなのだ。

いま、多くの若手選手が衒(てら)いなく、怖じずに自分の柔道のモットーを「二本しっかり持って、投げて『一本』を獲ること」と表明する。そして志ある若い指導者たちが同時多発的に、まるで何かに導かれるかのように「二本持って相手と繋がり続けて、威力のある投げを打ち込む」柔道を志向し、これまでの「持って持たせず一方的に掛ける」メソッド柔道の一段上の、再生産ある新たな方法論を現場に持ち込み始めている。

ほとんどの柔道人が「そんなの当たり前ではないか」と言うだろう。だってその方が伸びるし勝てるし面白いし、何より格好いい。面白くやりがいのある方法論と伸びしろ・勝ち筋がリンクしているのだから、この価値観で柔道をやらないほうがむしろおかしい。まずこれを志向するのが当たり前。これが冒頭書いた「常識」だ。

だが思い返して欲しい。ほんの10年前、これはまったく当たり前ではなかった。「二本しっかり持って、投げて『一本』を獲る」は言葉としては美しい、だけどどこか空虚な、「ハイハイ」と流されてしまうような建前だった。もしくは物凄く限られたエリートのみが発することを許される「特権階級の理想論」だった。現実主義者の「話はわかるけどそれじゃ試合の勝ちはついてこないよ」という冷たい言葉の前に発した選手も指導者も一度引っ込めざるを得ない、稚気溢れる、少し非現実的な言葉だったはずだ。少なくとも誰もが堂々、人前で表明出来るような言葉ではなかった。

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