文責:古田英毅
Text by Hideki Furuta
現地の体験をまとめたメモを「観戦記」という形でアウトプットさせて頂く。この試合は歴史的一番でありながら実際に目撃したもの極めて少ないクローズドイベントであり、会場であったことを残すことにはある程度の意味があると思う。拙い日記ではあるがなにがしか皆さんの観戦体験を補完できるものになれば幸いである。ちなみに「補完」の接点として説明しておくと、公式動画内正面からの絵、タイマーの真上でひざ掛け上にメモを広げているのが私(の脚)である。あの場所からのルポなのだな、と思ってもらえれば幸いだ。

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14:15 神保町から春日に向かう都営三田線の車中で、先日柔道本を上梓されたばかりのT記者と出くわす。珍しくスーツ姿。「プレビューを読んで、そうか、自分はきょう歴史の証人なんだと気づいて急遽着替えました」とのこと。その感性が嬉しい。私も勿論珍しくネクタイ締めている。連れだって講道館へ。
14:25 講道館旧館前到着。代表撮影のカメラマンさんたちとTV勢が先着しているが、ペン記者では一番乗り。T記者に続き、H記者、M記者、I記者とメジャーメディアの柔道担当記者が続々到着。まずは、と嘉納師範像の写真を撮り「現地着」とSNSに投稿。
14:30 ここ数日感情がおかしい。緊張だけではない。話を聞いてくれる人が現れたおかげで、けさ気づいたその理由をようやくアウトプット出来る。なぜこんなに気持ちが重いのか。あまりにも決定的な一番すぎて、どちらかが負ける姿を見るのが怖いのだ。ワンマッチの五輪代表決定戦。試合は見たいけど、楽しみかと言われると実は全然そうじゃない。このやり方で本当に良かったのだろうか。残酷すぎはしないだろうか。
14:35 予定時刻 (14:45)前だが、人の集まりのペースが早いので密を避けるために受付を開始します、と広報さんが声を掛けてくれる。手を消毒し、検温し、2週間の健康調査表を提出し、「同意書」に署名する。入場が許されるのは、昨年度の取材実績に応じて選ばれた社から代表1名ずつの35名のみ。「同意書」はもちろん「コロナ感染防止対策に協力します」という趣旨のものなのだが、この大一番、そして入場者が極端に限られる中では「歴史の証人として責任を持って報道します」とか「どんな結末も甘んじて受け入れます」との誓約書に署名させられた気分になる。背筋が伸びる。恐怖感がさらに増す。密を避けるために4人ずつが旧館のエレベーターで昇り、途中から外階段を使って新館8Fの観客席フロアに向かうという変則ルートで移動を開始。
14:40 8階観客席へ。大道場の風景が一変している。国際仕様の「黄色・赤」畳に、1面のみの試合場。中継局がSNSに作業の様子を投稿してくれていたので事前に知ってはいたが、やはりかなりの異容。普段はつかない天井のシーリングライト(普段は蛍光灯のみ)の点灯が、意外にもかなりこの特別感の醸成に一役買っている。不自然に明るい。場内はリハーサルが進行中。代役の試合者を入れ、SEIKOタイマーが稼働。そしてここで我々は、主審が天野安喜子さんであることを知る。

14:45 向こう正面の報道席へ。机はない。数席間隔で使用可能な椅子が定められている。ご存じの通り講道館8階観客席は観にくい。最前列は視界に柵が入って顔を上下前後と動かさねばならないが、これを避けて1列下がっただけでもう死角が出る。足元側が見えない。すべてを満たす席はない。腹を括って最前列を確保する。リュックを置き、いったん席を立ってスマホで場内を撮影。比較用にと先週同じ場所から撮っておいた写真と併せて、SNSにアップする。デバイスは導入したばかりのiphone12mini。こういう用途のために入れたと言っていいのだが、そもそも大会自体がなく今回の一連がようやく初の使用。
14:50 「ひとり強化会議」の名づけ親であるライターの佐藤温夏さんが登場。長大な記事を丁寧に読み込んでくださっていた。長さを詫びると、いくら長くてもいい、むしろいつまでも読んでいたいとありがたいお返事。そして場慣れしている温夏さんの表情にも緊張感ありあり。我々が事前に伝えられているスケジュールは「16:40選手入場」。大一番まであと、1時間50分。
14:55 弾むとか楽しみだとかいうポジティブな気持ちが一切湧かず、変わらず緊張と恐怖が薄く続く。リハーサルが進む。場内アナウンスはお馴染み内海秀一先生。内海さんがアナウンスし、天野さんが裁く。世界選手権決勝クラスだ。運営側がただ1試合のために、総力体制で臨んでいることがよくわかる。
15:00 リハーサルほぼ終了。ただでさえ静かな館内がさらに静まり返ることとなる。複数の記者から「試合場が広いのではないか」との囁き。もっとも。試合場は50畳×1面、規格通りのフルマックスだが敷かれているのは国際仕様の200cm幅畳であり、国内仕様の180cm幅×32畳(赤畳含まず)×4面が日常風景の大道場にあってはひときわ広く感じるはず。観客席に人は薄い。実はいまは少年部の稽古中で観客席にいるのは保護者の方々なんですよ、と言われても通るくらいの密度。
15:12 パートナー2人を伴って、青柔道衣の阿部一二三が大道場に現れる。まず軽く跳ねてサイドステップ。場内の静けさゆえ、足が畳を擦る音までがはっきり聞こえる。立ったまましばしストレッチ、まず前襟を持っての右大内刈×10回から打ち込みスタート。打ちこみを受けるのは片倉選手と塚本選手。
15:14 2セット目は右「小内払い」×10回。打点が足首より上で崩し技という印象だが、10本目は鎌足で引っ掛ける。阿部の顔は明らかに削げている。相当絞り込んでいる印象で心なしか体つきもシャープ。組み手を左に変えて、3セット目は左大内刈×10回。
15:16 左大外刈×10回。左技は体のバランスを取るためか。帯同者の海老沼聖氏と伊丹直喜氏が見守る中、5セット目は右大外刈×10回。
15:17 一口、給水。続いて右の跳ね技(内股・払腰)×10回。決めの上げ動作はなし。静寂の中ふたたび右の跳ね技×10回。勝負技ではないが2歩目の軸足踏み込みはかなりの力感。続く8セット目は前襟を持っての右背負投。足が前に出、手と頭が相手の体に近く、上半身が相手側にもたれかかる一見不安定な形になる。教科書通りなら手を前に出して背筋を立てるのだろうが、阿部独特の「引っこ抜き」や決めの巧さに特化しているのかな、などと推測。10回目の決めはパートナーが少し跳ねる形で背中に深く乗る。続いて右袖釣込腰×10回。相手の上体を半回転で小さく固める9回と、回転し切って深く入る10回目。次は左袖釣込腰×10回、同じく半身でインパクトの強さが際立つ。10回目は持ち上げ、相手を背に負うたまま膝の屈伸を3、4回。ここで相手が左組みになり、右背負投。これはケンカ四つ用に右足を一歩横に出した体落型。力強く10回。
15:22 いったん離れてサイドステップ、続いてしばし息を入れる。両袖を起点に右一本背負投×10回。これも足を前に出して上体を残し、仰け反る形。10回目の決めのみ深く乗せる。続いて右出足払×10回。下がり際想定のこの技は上手い。メモに蛍光ペンで印をつけておく。続いてはケンカ四つで右大内刈×10回。
15:24 いったん離れて打ち込み中断。手先を上げて相手にアプローチ、ドンと突き離す動作を数度。ここからややペースを上げて自らが左に組んでおいての右一本背負投×10回、ケンカ四つの右大腰(柔道衣を握っているから正確には釣込腰)×10回、相四つ奥襟での右釣込腰×10回。ここで打ち込みは中断。相四つ奥襟でしばし圧を掛けあい、アップに一区切りつけた模様。表情はほとんど変えない。
15:27 試合場内を人払い。給水ないまましばし呼吸を整え、パートナー1人を呼び入れて試合場いっぱいを使ってアプローチの練習。離れては近づき、手先で突いては離れる。時折先んじて持つその形は、両襟。
15:31 右背負投で数度投げて終了。一団が去った場内はふたたび静寂。
15:40 時折誰かが来てはしばし話し、その後は長い無言というルーティンの繰り返し。設営に携わったWさんがいらしたので、苦労話を聞かせてもらう。想像以上。相当の負荷なのだろう、激務が日常のはずの彼の体中から疲労がありあり立ち上る。
15:43 記者席にざわめき。正面向かって左側の観客席に阿部詩選手が姿を現す。パーク24の指導陣とともに着座。距離が遠く表情は伺えない。ただ緊張は遠目にもわかる。なんだかいつもの存在感がなく、気配が薄い。というよりも、気配を消しているのか。
16:00 遥か遠くの右奥観客席で、アナウンサー2人が試合場を背に喋り始める。いよいよテレビ中継が始まった模様。場内のあまりの静かさゆえ締めの「控室で時を待ちます」との言葉がここまではっきり聞こえる。場内はふたたび静寂。
16:08 テレビ中継視聴中のライター小林大悟君から、大野将平選手が打ち込みを受けている、これは丸山選手には心強いでしょうねとの旨メッセージ届く。現地では逆に知り得ない情報。5階か6階でやっているのだろうか。周囲の記者に伝える。
16:10 予想通り会場が惻惻と冷え出し、記者さんたちが手を擦り合わせて震え始める。私は夕方の講道館8Fの底冷えがいかに過酷かを知っているので(少年部のお母さん方は強くうなずいてくれるであろう)衣装も装備も万全。持参のクッションやカイロに加えて、ここでスマホグローブとひざ掛けを取り出す。準備がいいですねと声を掛けられる。思わず後方斜め席のI記者をチラ見。私はジャカルタアジア大会で会場のあまりの寒さ(エアコン)に40度近い熱を出し帰国後も1週間寝込んだのだが、彼は8月の東南アジアになんとダウンジャケットを持ち込んで余裕の表情だった。半袖短パンで乗り込み、まさに瀕死の体調のなか「下から目線」で彼を眺めた我が身を思い出す。取材は段取り八分。
16:30 「静かすぎる」とメモしてノートを見やると、この20分「静か」としか書いていない。同じ言葉で頁が埋まっている。メモの意味なし。
16:35 T記者とI記者が緊張感を訴える。「自分だったら逃げ出す」と。そんな軽口叩く人たちではない。百戦錬磨の両名にしてこの発言。空気が異常だ。
16:37 囁きすら消え、誰も口を利かなくなる。
16:39 内海秀一先生の「まもなく、試合が開始されます」とのアナウンスが響く。声は朗々。講道館の決まり事である嘉納師範の写真への「礼」が促される。
16:40 照明落ちる。暗い。誰1人喋らない。東京ドームシティアトラクションズのジェットコースターの通過音と、「キャー」という歓声が遠く切れ切れに聞こえる。あまりの静かさゆえ。ミスマッチが緊張感をいやが上にも増す。
16:41 水を打った静けさ。
16:42 場内静まり返る中、足元から試合場に向かって影が伸びる。おそらく天野審判員。しばしあって予想通り我々の視界に姿を現し、大回りのルートをたどって試合場へ。もう入口に丸山と阿部は姿を現しているのだろうか。その頭上に座っている形の我々からは、うかがい知ることが出来ない。
16:43 代表スチールカメラのシャッター音だけが響き続ける。平野弘幸氏・小志田憲一氏と副審2人の名が紹介され、続いて照明が、我々からは姿が見えない丸山・阿部の両雄をまばゆく照らす。我々には「目つぶし」の方向からの強い光。講道館大道場はショーアップとはもっとも縁遠い場所。場内が暗く、一部のみがまばゆくライトアップされる特別感は、日本武道館や東京体育館の舞台とはくらべものにならない。選手名がコールされて、両者が入場。
16:44 国際大会にはない「正面に礼」が促されて、ついに試合開始。
[0:00~2:00] やはり阿部は相手の良さを消す作戦。釣り手で袖口を抑えて殺し、一方的に技を積む構えで試合に入る。丸山片手の左内股を返して阿部を崩すが、予期された阿部の「袖抑え」作戦に対して明確な策が見えない印象。なかなか二本が持てない。
[2:00~3:00] 丸山両襟で組むと、これを切った阿部は早くも息を荒げている。場内極めて静かゆえ、その呼吸音が8階まで聞こえる。この後阿部が10秒近く「手首抑え」の挙に出るが主審はスルー。阿部は不十分ながらも右背負投で攻める。
[2:33] 丸山に消極的「指導」。技数を考えれば正当。とはいえ試合を動かしに行っているのは丸山の側で、阿部の柔道は基本的にリアクション。丸山は自信満々に見える。勝負は予断を許さない。
[2:55] 丸山が釣り手一本からの右一本背負投フェイントで阿部の頭を下げ、すかさず、ついに引き手を持つ。阿部危機を感じて体勢を低くして潰れる。丸山が組み手に極めて具体的な手段を提示した攻防。このアクションがゲームチェンジャーになるかもしれない。メモのこの部分を、赤ペンでグルリと囲む。
[3:00~4:00] 阿部が息を荒げながら、そして不十分な組み手ながら片手の右背負投で攻め続ける。あっという間に本戦4分間が過ぎ去り、試合はGS延長戦へ。
[GS0:00~1:00] 丸山が組み手を変えてくるかと予想したが、この点に明確な変化は見えない。変わらず釣り手は、糸を引くような速さの釣り手一本襟狙いが軸。持てねば戻すが、掴まれることも多い。丸山の一本に、阿部が二本で対処するためあまり効率がいいとは言えない。GS32秒、阿部の右出足払に丸山「韓国背負い」風の肩車を合わせる。これはいいタイミング。勝負技なのかもしれない。しかし阿部は良いタイミングの右出足払で丸山を場外に弾き出し、展開に差はつかず。
[GS1:50] 阿部の片手体落の直後、丸山に消極的との咎で「指導2」。これで反則累積差は2-0。
[GS2:01] 丸山が両袖から釣り手を切り、すかさず上から後帯を持つ完璧に近い形。阿部決めていたかのようにすぐさま潰れ、偽装攻撃による「指導」。反則累積差は2-1。
[GS2:32] 阿部が引き手を持ち、釣り手で後帯を持って丸山を圧す。体を「く」の字に低い体勢を強いられた丸山、阿部に帯掴みの「指導」が与えれぬとみるや巧みに肩を外して左内股一撃。しかしやはり体勢が窮屈、軸足が流れ、阿部が隅落で回しかかって「待て」。
[GS2:30~4:40] 阿部が粘度高い組み手と早い技出しを続け、丸山の技は状況の打開に留まる。
[GS4:40~5:08] 丸山左体落に片襟の左背負投。打点高い良い技。久々の反抗。良くなっているのか。
[GS6:06] 阿部が場外に向かって思い切り右一本背負投。丸山はまたいで受ける危うい対応、阿部は好機とばかりに乗り込んで決めに掛かるが、体の下で空回りしてしまい「待て」。阿部が陣地を1つ戻した格好。
[GS6;36] 丸山が高速の巴投。これまでと全く違うスピード、明らかに勝負技。8階からは背中側ながら決まる残像までが見える強烈な一撃だったが、阿部崩れず両足で立つ。
[GS8:35] 阿部が単調になり、丸山が陣地を復し始めたところで、阿部指から出血。負傷治療のために中断。
[GS9:12] 阿部が背中を抱えながらケンケンの右大内刈、激しく追う。上階からは十分深く、かつ相当な距離を追ったと見えたが、丸山なんと立ったまま場外まで受け切り一切崩れず。
[GS10:20] 丸山右一本背負投フェイントから、しかも今度は出足払を入れながら引き手で襟を持つ。チャンスは流れたが、阿部にはかなりのプレッシャーが掛かったはず。この後に繋がるか。
[GS10:43] 丸山右一本背負投フェイントから引き手を持つ。これもチャンス自体は流れたが主導権やや丸山に移り、続いては両袖の絞り合いから敢えて切らせ、奥襟に持ち替えるなり左内股一撃。この日これまでで最も良い形で入った内股。しかし阿部体勢を低くして受け切り、丸山が膝を着いてしまい技は決まらず。
[GS10:43~11:50] 引き続き丸山の時間。前へ前へと体を運ぶ。阿部が我慢して技を打ち返すことで明確なスコア差はつかないが、勝機が揺れ動いている印象。
[GS11:57] 丸山またもや右一本背負投フェイントから引き手を得る。体勢を低く屈した阿部、袖釣込腰を空転する形で潰れてしまい、偽装攻撃で「指導2」。反則累積差は2-2。ついにスコアが並ぶ。
[GS11:57~G13:36] 攻防は一進一退。丸山に十分組ませないまま技を出すという観点では阿部の作戦通りだが、「指導3」決着がおそらくないというこの状況では出口が見えるというわけでもない。丸山の側も芯を食った技が出せる気配なく、評価分かれる時間帯。
[GS13:36] 丸山が組み手を引っ張る攻防を端緒に、阿部が大内刈崩れの膝つき右背負投。しかし予期した丸山余裕を持って外し、一段引き上げて左内股。良い攻め。
[GS13:36~15:06] 阿部息を荒げているが、目から光が消えていない。不十分ながらも技を積む。この時間帯は阿部が無理やり流れを戻した印象。丸山の技は散発、常の試合であれば「指導」を受けても文句の言えない状況。
[GS15:18] 阿部右出足払。これが効いている。かつてのこの対戦ではここまで大きな手札にはなっていなかった。
[GS15:39] 丸山が前に出ると阿部右袖釣込腰。待ち構えた丸山抱き抱えて谷落も、相手を抱いたまま、自らの体の上に投げてしまう形となる。阿部は小内刈の形で被るが、これは当然ながら丸山の自爆という評価でノーポイント。
[GS16:42] 丸山が敢えて右に組んでの左小外刈、さらにがっちり両襟と、組み手のモビリティが上がって来た。阿部の集中力が落ちて来たか、釣り手で袖を抑える時間が減って来た。丸山が襟を持てるかもしれない。丸山、阿部の左袖釣込腰を外して左内股。ノートに「!」を書いてしまう良い技だったが、阿部腰を引いて受け切る。受けが上手くなっている。
[GS16:42~17:46] 組み手の流動性が上がって来た丸山、この時間帯は釣り手の持ちどころにバリエーションを見い出す。脇裏、肩口と持ってプレッシャーを呉れる。ノートには白の試合者側の書きこみが圧倒的に増え、試合を動かしているのが丸山であることがわかる、丸山左小外掛崩れの強烈な肩車。しかし仕留めきれず、阿部は立ったまま受け切り、反転して潰れる。
[GS18:19] 丸山がまたもや右一本背負投フェイントから引き手を確保。阿部すかさず体勢を低くして耐えるが、潰されてしまう。こちらも常であれば「指導」が来る場面。流れは丸山。ここで阿部、出血を訴えて2度目の治療中断。
[GS18:19~19:33] 丸山ユラリと前へ。阿部変わらず釣り手で袖を殺すことをベースとするがさすがに集中力が落ちたか、丸山が釣り手で襟、あるいはそれに準ずる脇、肩口を持つ時間が増える。眼前の現象は拮抗だが、この流れの延長線上には近い将来の丸山の優位が透けて見える。
[GS19:33~] 組み手の状況が変わり始め、やや苦しくなった阿部は禁断の「手首握り」を3度繰り出す。丸山は持って見ろとばかりに引き手を晒し、具体的に流れを掴みつつある。
[GS20:00] 阿部が膝裏への右小外刈から大内刈。さらに大内刈と攻め込んだところで返さんとした丸山と一瞬投げ合いになり(※註:当日8階から見たメモに基づく。ご存じの通り解釈はその後変わった)、激しく落ちた試合者たちのこちら側で、天野主審が「技有」を宣告。

17:20 投げが決まったのは、報道席からもっとも遠い正面側の場外コーナー付近、かつこちらからは背中側。正確な視認にはあまりにも遠い。片目で試合場、片目で周囲の記者を見ながら「阿部?」「いや丸山が返しましたよね?」と会話を交わすも、しかし本音では我々全員が試合が決着したことを悟っていた。天野主審が右手の「技有」ゼスチャーを解かぬまま左でピシリと、これを見ろとばかりの明確な動作で指示したのは「青」の開始線(思えばこの国際ルールにはない新設措置が試合の混乱を未然に防いでいたと言えるかもしれない)。試合者に最も近い、しかも天野さんがあの態度で示したジャッジが、間違いである可能性はほぼない。映像確認を経て阿部の側に手が上がり、この長い1日が、実質、終わった。
アリーナレベルの勝利者インタビュー、続いて井上康生監督のインタビューが終わると、記者が一斉に荷物を片付け、会見場への移動準備を始める。この後自分が為すべき仕事を頭の中で組み立て直す。ニュース速報はメジャーメディアがしっかりやるから最低限の量でいいがとにかく早めに、インタビューも同様で抜き出しのサマリーはメジャーメディアが早々に載せるから、これは逆に起こしに時間が掛かってもいいから量を確保し、要旨の形で明日出す。ゆえに今日の自分の仕事のプライオリティは何より「早出し評」だと定めつつ、頭の中でインプレッションをまとめる。早出し評に書くもの、映像を見返しての総評に残しておく課題、それでも書ききれないものの消化をどうするか。
リュックを背負い、広げたままのPCと携帯を手持ちしてゆっくり階段を降りる。ワンフロア下りたところで、勝敗が決して以降、自分が丸山の顔をほとんど見ていないことに気付いた。姿の記憶がない。礼の後、阿部が僅かに歩み寄る気配を見せるのをよそに、下を向いたまま早々に下がったのはかすかに覚えている。丸山はその後どうしたろうか。絶望して畳に突っ伏しただろうか、泣いていただろうか、それとも顔を上げて堂々と大道場を去ったのだろうか。なぜ自分はそれを見ていなかったのか。意識せずに勝者に目が吸い寄せられたのか、それともやっぱり、いま全てを失ったものの姿をまっすぐ見る勇気が自分にはなかったのか。
「ZOOM2」、敗者用のオンライン回線取材を頼んである小林君にもう1度「よろしく頼む」とメッセージを送らなければ。そして自分が本来見るべきは実は丸山なのではないだろうか、今からでも交代したほうがいいのだろうか、と立ち止まったところで、後ろからやってくる記者さんたちに背中を押されて我に返った。待ったなし、すぐに会見が始まる。席を確保し、メモの準備をしなければ。そして一刻も早く「評」を書かなければ。会見場の新館2F「教室」では記者さんたちが既に席を占め始め、電源を求めて慌ただしく動き始めていた。
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当日「早出し評」を出し、数日たって「総評」まで書き終わったときに、この試合の内容を再解釈する新たな見立てに辿り着いた。自分が丸山の組み手の手立ての薄さを厳しく指摘する一方で(あの日効果的と評した右一本背負投フェイントからの引き手持ちも、そもそも持ちたい手を一度自ら逆側に振っているので持つのに時間が掛かり非効率。しかもたぶん阿部はすぐに体勢を低くし、おそらく引き手を深く抱えて内股を掛けにくくしているので実はあまり効いていなかったのではないか。見せ技だと見切った後半は尚更である)、では丸山はどうすれば勝てたのかを提示しないのは片手落ちだとの反省から、具体的手段を考えるべきだと沈思黙考。妄想の翼を広げ、映像で検証を試みた。どうやら書ける。「技」「フィジカル」「勝負」と、総評と同じくらいのボリュームでまったく異なる視点から書ける。しかし、おそらく今更これを出したところで「しつこい」と辟易する読者も多いだろう。また、全日本選手権を前に、あの精神力と体力を絞り尽くす「評」を書く時間は率直に言って確保しがたい。とはいえこの段階で筆を収めては、あの日現場にいるものとして覚悟した「歴史の証人」としての責を果たしたとは言えないのではないか。
冒頭にも書いたが、ここまで考えて、その中でいま出来ることは何か、と考えてこの拙い日記を世に出すこととした。現場で起こったことを残すべきだという衝動も大きかったのだが、書き終えてみてもっとも印象強く思い返すのは、試合開始前の緊張感、そしてなにより試合が終わったあと会見を待つ間に感じたあの一抹の無常感、寂寞感。大一番が終わったゆえの爽やかな脱力感とは程遠い切なさであった。もちろん凄い試合を見たという高揚感も凄まじいものがあったのだが、翌日おそらく自分は「凄い試合だったねえ」の声に素直に反応出来ないのではないかと感じた。この方式は、過酷すぎる。コロナ禍という状況はもちろん、種々様々なファクターが揃って出来上がったこの方式の選考は、おそらくこのあと二度と繰り返されることはないだろう。「ワンマッチ」という形式のこの盛り上がりに可能性を感じ、興行的な文脈で将来を語る向きのファンがあると仄聞するが、あまり前のめりにならないほうがいい。今回の対戦がここまで盛り上がったのは真のトップレベルにある現役選手が「負ければすべてを失う」という条件で1回こっきりの真剣勝負を繰り広げるという奇跡的なファクターが揃ったから(負ければその時点ですべてが終わる甲子園の熱狂に近い)で、現役選手の興行的ワンマッチには、このもっとも大事な核が揃いようがない。そして揃えればそれは残酷な見世物になるだけである。人生掛かった妥協なしの真剣勝負というリンゴの芯を抜いて、内容だけでここまで盛り上がるほどには柔道競技は派手ではないし、見守る社会も成熟していない。レジェンドたちの特撰乱取くらいに留めておく(これは内容自体でファンを満足させられるコンテンツだ)のがもっとも適切で、しかも盛り上がると思う。
話が逸れた。これで稿を閉じる。それにしても恐ろしい試合だ。書いても書いても、考えれば考えるほど、深くその世界に呑み込まれてしまう。さきほどの「再解釈」は時間と機会があれば、再び世に問いたいと思う。
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