「対校試合は学生の訓育程度を試験する機会である。」
出典:「対校試合について」柔道2巻5号 大正5年5月
(『嘉納治五郎大系』6巻28頁)
嘉納師範が試合を講道館柔道の目的としていなかったことは、本連載で、たびたび紹介していますが(第5回、第10回、第59回、第105回など)、試合そのものを否定しているわけではありません。むしろ、柔道の修行上、有益とし奨励しています。
その流れからか学校間で行われる「対校試合」についても、様々な弊害があるという当時の意見に対して、反論しています。
「対校試合」に対する批判の一例として<(対校試合は)生徒を熱狂的にして学業を怠らせ、他の学校のものに悪感情を持たせる>といった意見があると師範は言います。師範の時代に限らず、現在にも通じそうな話ですが、師範は、どう反論したのでしょうか・・・。
大まかに言うと、そういった弊害は<対校試合自体の問題ではなく、普段からの教育が不十分だから生じる>というのが師範の主張です。
ここで冒頭の「ひとこと」の登場です。
「訓育」と言うと、固い感じがしますが、辞書によっては「教え育てること」とあるくらいですから、「教育」と同じ程度に捉えていただいても問題ないでしょう。<対校試合は、学生の教育の程度を試す機会である>ということです。
普段の教育が十分に行き届いていれば、対校試合にかまけて勉強しない、あるいは、他校の生徒に悪い感情を持つといった弊害は生まれないと師範は言います。確かに、そのような状態であれば、対校試合も悪く言われないでしょう。ですが、うまくいっていないからこそ、批判が生まれたわけです。つまり教育が不十分だったということです。残念な話ではありますが、師範はそれを<教育・矯正の機会が与えられた>と捉えています。
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