【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第15回「審判者なるものは単に規程に拠りて勝負を判定するだけではならぬ。勝負中試合者の挙動が柔道の修行者として適当の挙動であるかどうかということを始終注意していて怠らず指導していかねばならぬ。」
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第14回「審判は神聖なるものとしてあるのであるから、仮に審判員の判断に過失があっても、審判自身が取り消さぬ以上は、一度宣告した決定は、動かすことの出来ぬものとなっている」
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第12回「金銭は元来心身の力を使用して得た一種の生産物であって、心身の力の変形と見做しても差支えないのである。よってこれを有効に使用せぬことは心身の力を有効に使用せぬのと同じことである。」
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第11回「注意すべきことは、乱取の練習、または試合の最中、帯を締め直すことである。容易(たやす)く解けるような帯の締め方をして出場することは、自分の不用意を示すのみならず、時間を徒費して他人に迷惑を掛けることになる」
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第10回「 今日の柔道家も、柔道の究竟の目的に達しようとする努力が足りなくて、その手段に過ぎない強くなろうとか、勝負に勝とうとかいうようなことに重きを置き過ぎているようである。 」
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第6回「大量とは新しい思想を嫌わず容れる性質と種々さまざまの事を同時に考えて混淆(こんこう)せしめぬように纏(まと)める力との二つを含んでいる言葉でして、これが柔道の修行上なぜ大切かなれば人はとかく自分の考えを信ずることの強さのあまりこれに優るところの考えが新しく出てきてもこれを採らないばかりではなく、その新しい考えについて善悪の見分けをも付けてみないようなことが往々あるものにして柔道の投技とか固技とかの理論についてはまことにそのようなことがだれにもありやすいものでございます。」
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第5回「 いかなる種類の試合にも共通であって、試合の最も大切なる目的は何かというと試合によってどれほど技術が上達したか、いかに体力が増したか、精神の修養とか工夫の力がどれほど進んだかというようなことを各自にも知り、指導者にも認めてもらう機会を作ることである。」
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第4回「柔道勝負法では勝負と申すことを狭い意味に用いまして人を殺そうと思えば殺すことが出来、傷めようと思えば傷めることが出来、捕らえようと思えば捕らえることが出来、また向うより自分にそのようなことを仕掛けて参ったときこちらではよくこれを防ぐことの出来る術の練習を申します。」
【隔週刊・嘉納治五郎師範のひとこと】第3回「柔道と申すものは体育勝負修心の三つの目的が有っておりましてこれを修行致しますれば体育も出来、勝負の方法も練習出来、一種の智育徳育も出来る都合になっております」